ジムノペディと駄文

ジムノペディはエントリーに関係あるような無いようなw

以下、昨日投稿する予定だった駄文





日常的なニュースのひとつ

たぶん「そうなんだ」くらいの内容

でもよく考えると人が怖くなってくる話

なぜか

それはヒトラーという名に良いイメージはないから

でも世界はその絵に1900万円もの価値を見出す

ヒトラーと同じ世代だった人が幾人もいて「良い行い」をした人もいたはず

でもそれは決して表に出てこない記録

つまり「価値」と見なされない

誰かが簡単に成しえる「行い」は善悪関係なく「ありふれたもの」として史上に残らない

残るのは「量」や「質」において際立っている「行い」だけだから



これを身近なところに置き換えて考えるとちょっと面白い

例えば日本の戦国時代

とりあえず有名な織田信長豊臣秀吉徳川家康

見たわけじゃないから間違ってたら謝りにいきたいが

要は人を殺めている方々だ

でも世間はこれら「偉人」を敬い、参詣している

無論、今の日本に繋がる土台を築いた方々なのだから当然かもしれない

じゃあ何が引っかかるのか

それはこの「偉人」に殺められた名も伝わらない人達のことだ

自分のルーツを戦国時代から把握している人がどれだけいるのか知らないが

「偉人」に殺められた血筋の人も現代に生きているだろう

その「名も伝わっていない」血を受け継いでいる人がだ

自分の先祖を手にかけた相手を、何も知らないままに参詣している

そう考えると絵面的にちょっと面白い

いったい誰に向かって手を合わせているんだろうと

実質、仇に頭を下げているようなものだろう



もし自分がそうだったとしたら笑うんだろうけど

やばい、ご先祖様斬った人拝んじゃったよw

という感じで

案外それが当たり前で誰も気にするようなことじゃないのかもしれない



それに情の及ぶ範囲というものを考えれば当然かもしれない

どこまで親しみを感じる範囲か、それは人それぞれだが

親、子、孫、曾孫

あくまで一般論として、この範囲の家族が危害を加えられれば加害者を憎むだろう

でもここから外の範囲に向かうにしたがって、徐々に情は及ばなくなる

会ったこともない5代も6代も前のじいさまが戦争で命を落としたと知って、いったいどれだけの人が「加害者」を恨むだろうか

つまりそういうことだと思う

人が生きるために大事なのは何代も前のじいさまの恨みより日々の糧、あるいは情の及ぶ人間関係の方だ

だから別につらつらとこんなエントリーを書き起こしたりする必要はないわけだw



ただちょっと気になるところもある

それは自分が生きてきた時間の中でリアルタイムに報道されてきた「加害者」達のことだ

悪事を行って裁かれるのは当然として、それは記録として残っていくことになる

何世紀もたって「加害者」が残した遺物に「価値」が見出されることはないだろうか



また、その逆に日々必死に汗水たらして労働に勤しむまともな人々の記録はどうだろう

どれほど残り、後世に伝えられ、「価値」あるものとして存在していくだろう

「評価」という対価によって購われるのは当然として、もっと何か残すことはできないだろうか

人の努力による成果に対して、何か記録する術があってもいいと思う

今は自分で発信したり記録をつけるといった方法ばかりだ

何世紀も残っていくのが悪事の記録ばかりというのは悲しすぎる

人が生きた証のようなものを日々記録していけるなら、これは価値あるものだと思う

子孫が残るにしろ残らないにしろ、ひとりの人間がどう生きてどう終わりを迎えたのか

そういうところから得られるものこそ「価値」あるものになっていって欲しい



と書いたあたりで昨日は寝落ちした